全国調理食品工業協同組合

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全調食 公認企画「私と調理食品」

 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(8)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(8)
 
勝木食品工業株式会社 代表取締役 勝木 秀昭氏

努力は裏切らない
「クルミなら勝木」目指す

 私の祖父は福井県で魚屋と料亭を営んでいた。弊社創業のきっかけは、父が高校卒業後に福井から上京、当時働いていた会社から独立し昭和37年に江戸川区宇喜田町に惣菜メーカーを立ち上げたことに遡る。当初はメンマなど惣菜製造が中心だったが、売れ筋だった佃煮製品に少しずつシフトしていった。私は会社創設から間もない昭和38年に生まれた。幼少期から自宅に併設された工場で製造を手伝ったり、築地の配達に同行したりしていた。
 高校の卒業式の日、父親に遊んで来いと言われ、一万円を渡された。そのお金で朝までディスコで踊り明かし帰宅すると、家の前に父親が車を停めて待っていた。車に乗せられ向かった先は修行先に決まっていた佐々商店。到着してすぐに着替えさせられ、現場でタケノコの水揚げ作業が始まった。佐々商店で修行することを聞いてはいたものの、まさか卒業式の翌日からとは知らず、心の準備をする間もなく調理食品業界に飛び込んだ。
 佐々商店では18歳から21歳まで3年半程働かせて頂いた。釜場できんぴらやひじきなどの惣菜製造を行い、その技術と手間を惜しまない製造工程に驚かされた。他社が加工したがらないものをいかに美味しく製品化するかが技術の見せ所だということも同時に学んだ。
 家業に入り1年半程は釜場で製造業務に携わった。欠員が出たのをきっかけに、江戸川区内の量販店のルートセールスや築地市場の営業を担当するようになった。10年くらい築地の営業を中心にこなしていたが、少しずつ出荷量が目減りしていく中で、徐々に地方へと販路を求めるようになっていった。
 そうするうちに地方のコンビニベンダーから紹介してもらう形で大手コンビニに「さくらでんぶ」を納入することが決まり、全国への出荷が始まった。太巻きの芯用を中心に毎日300~400キロを製造する忙しい日々が続いたが、コンビニへの出荷は10年程でなくなった。
 ちょうどその頃、原料メーカーからアメリカ産クルミが解禁になったという話を聞き、自分自身クルミの佃煮が好きだっこともあり甘露煮の製造を始めた。クルミ甘露煮は当時、問屋価格で2キロ3000円以上したものを500グラム680円ほどで販売したところ良く売れた。
 さらにクルミ製品を拡販するため、クルミと自社製品の様々な組合せを試したところ、クルミと小女子の絶妙な味の組合せに気付いた。すぐに大手量販店での採用が決まり、そこから人気に火が付き、水産ルートへと広がっていった。味わいが好評だったため、まだまだ売れると感じ、既存商品を地方のお得意様に送る際に「くるみ小女子」の商品サンプルを付けて送った。10ケースのサンプルを付けて送ると翌日に100ケースのオーダーが来るという日々が続いた。
 ピークは15年程前、年間800トンのクルミを輸入し、この頃の日本全体の輸入量の約1割を占めていた。輸入量は年間500トンまで減少したが、現在でもクルミ製品は弊社の売上の半分を占める看板商品となっている。
 クルミの品質には特にこだわりがある。売れ始めた頃、クルミの殻などの異物混入が多く困っていた。問屋に問い合わせたところ相手にしてもらえず、風呂敷に自社製品を包み商社に直接交渉に行った。追い返されることを覚悟していたが、逆に川下の状況を知りたがっていたため情報が欲しいと歓迎された。それを機に、商社と一緒にカリフォルニアにクルミの買付けに訪れるようになった。長年通ううちに、現地の商社とも信頼関係を築くことができ、日本用に輸出されるクルミの品質基準に比べ、細かいクルミの割合が少なく殻の混入率も低い弊社独自の基準を創りあげることができた。
 また年間を通して海外出張が多いため、私がいなくても会社が回るようにFSSC22000やISOなどの認証規格を積極的に取得した。
 将来のことを想うと、佃煮製品だけではこの先限界があると考えている。今後はクルミを使用した佃煮以外の商品開発にも力を入れ、「クルミのことなら勝木」と言ってもらえるようオールジャンルでクルミ製品をラインナップできるよう力を入れていきたい。クルミは健康・美容効果が期待され、若者にも好んで食べてもらえるため、まだまだ伸びしろがあると思っている。
 座右の銘は「努力は裏切らない」。やればやっただけ、手を抜けば抜いただけ結果として表れる。神様はしっかりと見ていてくれる。周囲の人に恵まれ、ここまでやってくることができた。人との縁を大切に、この先も努力を続けていく。
【勝木秀昭(かつき・ひであき)】1963年東京都江戸川区生まれ、実践商業高等学校卒、1984年勝木食品工業株式会社入社。2003年より代表取締役社長
(藤井大碁)
【2016(平成28)年12月26日第4872号5面】


勝木食品工業株式会社 http://www.katsuki-foods.co.jp/
 
 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(7)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(7)
 
進興食品工業株式会社 代表取締役 山田 裕一郎氏

家業継承に長年の強い想い
若手へ食に携わる意義を伝える
 弊社は始め、大阪市東成区で飴の製造販売を行い、1949年に煮豆製造販売進興食品工業を設立。創業者は祖父。代表取締役に父親が就任した。当時の環境は工場が自宅隣に立地し、煮豆を製造する上でボイラーでの煮炊きができない状態であった。主に父親が製造、叔父が卸を担当していた。その頃私は、日曜日に豆を水漬けする手伝い、年末には段ボールの組み立てを行っていた。私が中学生の頃、父親が急死。父親が担当していた製造業務の仕事ぶりを実際に目の当りすることなく、私は現在の業務に携わっている。その後、叔父が代表取締役を引き継ぎ、当時学生だった私に対して「成人を迎えて進興食品工業に入社するまで、会社を預かっておくぞ」と言われた。その言葉により他社へ就業することを考えず、家業を継承していくんだという心境だった。
 大学在学中は茨木市北部市場で毎日早朝4時から昼過ぎまで、得意先への営業や煮豆販売などのアルバイトに明け暮れていた。学業ではゼミで多国籍企業論、コングロマリットを勉強。卒業論文では当時の大阪はコンビニエンスストアが皆無の状態で、関東を訪れた際にコンビニエンスストアが台頭していることを察知。大阪にも確実にコンビニエンスストアが参入すると考えその動向に注目し、コンビニエンスストア(CVS)をテーマにした論文を提出した。
 大学卒業後、世の中はバブル時代真っ只中であり、就職先は引く手あまたの状況。私は叔父から言われたことを思い出し、家業を継承していくと考えていた。しかし叔父の意向で、自社と関係性が強かった石井食品株式会社に入社した。入社後2年間はルートセールスを任され、千葉市内、勝浦市や茂原市、房総半島などのエリアを担当していた。3年目に転機を迎える。ワードプロセッサが主流の時代であり、日進月歩でIT化していく状況にシステムの必要性を考え、叔父に相談し電算課へ異動した。システム知識がなかった私は、パソコン用語を学ぶため勉強会に参加し、入力、出力などコンピューターのイロハを覚えてシステム構築のための勉強に励んだ。異動後間もなくして、「電算課促進プロジェクト」が立ち上がり、プロジェクトチームに所属し、受発注のシステムを構築した。その後、工場のシステム改善などを提案した。
 入社4年目の11月頃、進興食品工業に入社。当時の弊社状況は、日々の売上記録を手書きで行い、システムは手つかずの状況だった。システムを変えていくべきだと考え、電算課で経験したシステム構築の知識を共有しようと試みるが、私より社歴が長い社員が多く意見が通らないなどにより実行は難しかった。現在のシステムに整備されるまで、約6年の歳月を要した。ある日突然、叔父が心筋梗塞で急死。代表取締役を継ぐ立場となり、祖父から受け継がれる家業を潰すわけにはいかないという気持ちが強かったため即座に就任した。日頃から社員には、弊社の業務で関わるお客様は見えにくい立場にいるため、常に最終的なお客様の立場を意識しろと言っている。また私は危機的状況での対応次第で、これまで積み上げてきた信頼や信用が左右すると考え、失敗に対しての対応は真価が問われるとのことも日々伝えている。
 企業理念は「進興食品工業に関わる全ての人の幸せを追求すること」。社員には常々伝え、私も企業理念通り考えながら行動している。私が代表取締役に就任してから考え、立ち上げた。商品開発では、全国水産加工たべもの展で受賞した商品を弊社で商品化して小売店へ案内した。
 今後の調理食品に対して、全調食の岩田功理事長が実行している若手へ継承する考えには賛同している。現在進行している組合としての若手育成は非常に意義のあること。自社のみで若手への教育には限界がある。そのために組合で取り組むことが今の時代に必要ではないだろうか。また継承する若手にも仕事の意義を説明しないといけない。食に携わる意義、日本食の意義をしっかり伝えるべきであり、食への関心が薄れているように思う。食の歴史や食育などを説明し、仕事に落とし込まなければいけない。私は「食〓生きる」と考えている。この考えが薄れると生きることも弱くなると危惧する。
 趣味はウォーキング。毎日歩いて通勤を行い、1日約1万歩歩いている。出張先近辺をウォーキングすることも楽しみの一つ。ウォーキングを行うことで健康意識を持つこと、気持ちをリセットして1からスタートという気分でリフレッシュができる。
【山田裕一郎(やまだ・ゆういちろう)】
 1962年大阪府大阪市生まれ、近畿大学商経学部卒業。89年進興食品工業株式会社入社、96年より代表取締役
(郡山光)
【2016(平成28)年11月28日第4869号2面】


進興食品工業株式会社 http://www.shinkofood.com/

 
 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(6)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(6)
 
石井食品株式会社 代表取締役社長 長島 雅氏

社会的なニーズ形に
〝無添加調理〟の魅力広める
 弊社は戦前、電機関係の会社として創業、戦後食べ物が不足する中で佃煮製造を始めた。当時は会社のすぐ近くまで海で、アサリなど新鮮な魚介類を炊いていた。
 昭和33年には、それまで量り売りだった煮豆を真空包装で発売、広域流通が可能となりヒットした。昭和45年には業界初の調理済みハンバーグ「チキンハンバーグ」の販売に乗り出した。洋食ブームの中、ハンバーグ製造開始と共に佃煮事業は縮小、「石井の栗きんとん」という強力なブランドがあったため、おせちに関しては引き続き製造を続けることになった。
 私は昭和48年に入社試験を受け新卒で入社した。入社後、大阪営業所に配属され、「チキンハンバーグ」の営業に取り組んだ。当時、関東エリア以外で石井食品の知名度はゼロに近く、小売店回りや市場での朝売りを積極的に展開し、地域密着の営業活動を行っていった。その後、東京営業所や埼玉営業所に配属され、新発売した「ミートボール」の営業に取り組んだ。
 「ミートボール」は当初、中華風の味付けで食卓のおかず用として発売したが売れずに苦戦した。顧客調査の結果からお弁当のおかずとしての需要が高いことが解り、ターゲットとコンセプトを変え、〝石井のおべんとクンシリーズ”としてリニューアルしたところ良く売れるようになった。その後、CM放送の効果もあり爆発的なヒット商品となった。この経験から〝品質が良くてもターゲットやコンセプトがズレていれば売れない〟というマーケティングの重要性を痛感した。
 チェーンストア課課長や原料・包材関係を取り扱う資材企画室室長、千葉県中心に問屋業を行う子会社・イシイ産業の社長などを務めた後、1997年、本社マーケティング部創設を機に責任者として本社に戻った。そこで現在も会社の指針となっている〝三大原則(無添加調理・厳選素材・品質保証番号)”を現会長らと共に策定した。今後の会社の方向性を議論する中で、〝無添加調理〟をテーマにしていこうと決めた弊社のターニングポイントとなる重要な出来事だった。
 現在では、おせちを含めた全ての弊社製品は、この三大原則に従ってつくられている。石井ブランドの核は〝家庭でお母さんがつくる味わい”。食品添加物を使用せずに美味しいものをつくるためには、素材の良さが必然となるため〝厳選素材〟が原則となる。また、一つ一つの商品に固有の番号(品質保証番号)をつけ、原材料の産地・品種・加工日などの履歴を二次元データコードで管理する仕組みを構築し、お客様にWEB上でいつでも原料情報を確認して頂くことができる「オープンイシイ」のシステムを2001年にスタートした。こうした食の安心安全への対応は食品業界でも初めてであった。
 営業の責任者として常務・専務、その後に八千代工場の工場長を経て、2010年に四代目の社長に就任した。
 2014年、本社1階に「コミュニティハウス ヴィリジアン」をオープンした。当社商品の直売店やレストラン、千葉県産野菜中心のマルシェを併設し、音楽会や料理教室など様々なイベントを開催している。無添加調理の良さは簡単に伝わるものではなく、地域の皆様に楽しみながら商品を味わってもらい、その魅力を発信してもらうことが大変有効な情報発信に繋がる。お蔭様で、子供連れのお母様が連日来てくださり、口コミで無添加調理の魅力が広がってきている。特に子育て世代の方には、安心安全な無添加調理の商品を支持して頂き、大変有難く感じている。
 今後、日本の人口は減少し胃袋は縮んでいくが、社会的なニーズの変化に対応することで活路を見出すことができると考えている。無添加調理商品の他、お客様の要望から誕生した食物アレルギー配慮食品は安全を最優先し、美味しさにも限りなくこだわっており、食卓で家族全員が同じものを笑顔で食べてほしいという当社の願いが込められている。非常食の製造を始めたのも東日本大震災の際に、本当に困っている人の声を聞いたのがきっかけだった。食物アレルギーを持つ人や高血圧の人が食べられるものがなく、火や水を使用せずに食べられる非常食を開発した。
 そうした社会的なニーズを形にしていくことが我々の使命だと考えている。決して企業の目標を規模の拡大とは思っていない。小さくても社会的に価値があり、従業員がしっかり生活をしていければそれで良いのではないか。
 好きな言葉は、〝自然体で生きる〟。仕事ももちろん大切だが、もっと大切なのは人生そのもの。家族との時間や趣味の時間も仕事と同じくらい大切なものだ。私は大学時代に軽音楽クラブに所属して始めたコントラバスの演奏を続けている。10年前にその時の仲間とバンドを再結成し、定期的にライブハウスなどでジャズの演奏会を楽しんでいる。
 バンド内では他のメンバーは皆、当時の先輩たちなので、学生時代と変わらず未だに楽器運びなど雑用係も兼務している。社長に就任してから仕事関係では誰も怒ってくれる人は居なくなった。しかし、バンド内では怒られることも多く、気が引き締まる新鮮な機会になっている。毎晩帰宅後に1~2時間の練習を欠かさない。社員にも仕事以外の趣味を大切にしてほしいと思っている。
【長島雅(ながしま・ただし)】1951年東京都北区王子生まれ、明治大学経営学部卒後、1973年石井食品㈱入社。2010年より代表取締役社長
(藤井大碁)
【2016(平成28)年10月31日第4866号13面】

 
石井食品株式会社 http://www.ishiifood.co.jp/
 
 
 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(5)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(5)
 
株式会社太堀 代表取締役社長 渡部 隆夫氏
我事において後悔せず
人手不足で調理食品にチャンス

 弊社創業のきっかけは父が終戦後に福島から上京し、食品関連の仕事を始めたことに遡る。1960年に味付けメンマ製造メーカーとして神奈川県川崎市に有限会社大堀商店を設立した。
 もともとメンマは台湾から塩漬けで入ってきたものをラーメン屋が独自で味付けして提供していたが、手間がかかるということから我々メーカーから買うようになったようだ。当時の中国では売れ筋商品の原料は売れない原料と抱き合わせでないと売ってもらえなかったと聞いている。現地で全く売れないものを買わされ、その原料をどうにかこうにか加工することでヒット商品が生まれた例もあった。 例えば、中国南方地方にしかない直径1センチ程の太いゼンマイをカットし味付けした商品は大ヒットした。同じように当時珍しかったセリも良く売れたらしい。
 私は大学卒業後、大手商社系の販売会社で2年間勤務し、営業担当として都内や神奈川のスーパーを回った。その後、家業に入り、営業、企画課長、専務を務めた後、40歳の時に社長に就任した。
 常に苦労することは利益を出すことだ。全ての規格なども含めれば取扱いアイテム数は2000に至る。ほとんどの製品が業務用のため、多品種少量生産となり機械化が難しく、人件費・管理費・ロスが多く発生し利益を出すことが難しくなる。目先のことを一つ一つ解決していくことが大切だと考えている。
 また、業務用の営業は、常にお客様とのキャッチボールを繰り返し商品を作っていくため、密なコミュニケーションを欠かすことができず、それぞれの地域に営業拠点が必要になる。現在、札幌・仙台・北関東・長野・新潟・金沢・大阪・広島・福岡と本部以外に全国10カ所の営業所を設けて細やかな対応ができるように体制を整えている。
 工場はパック工場を含めて4つ。社員はパート含めて440人になる。企業理念は「お客様のために尽くす」。お客様に喜ばれるような営業、製品づくりに全力で取り組むことを掲げている。月に一度営業会議を行い全社で意思統一を図っている。
 今後は高齢化社会で消費の伸びは期待できず、人手不足も今以上に深刻になると考えている。人手不足に関しては、外食店の厨房で細かい作業を行うスタッフが不足するため、調理済み食品にとってはチャンスが来るのではないか。また、外国人観光客が日本の惣菜を食べ、美味しさに感心していると聞く。海外に売り込むという点でも大きなチャンスがあり、東南アジアは特に距離的にも近いので、今後に向けて市場を開拓できる可能性がある。
 自分の中ではどのように世代交代を行っていくかが大きなテーマになっている。将来的なイメージを次の世代の人間と話合いながら丁寧に組み立てて行きたい。
 座右の銘は、宮本武蔵の〝独行動〟の中にある「我事において後悔せず」と「仏神は貴し、仏神をたのまず」。趣味は読書と音楽鑑賞。最近はスポーツジムに通い健康管理にも取り組んでいる。
【渡部隆夫(わたべ・たかお)】1955年神奈川県川崎市生まれ、立命館大学文学部卒業後、1986年㈱太堀入社、1996年より代表取締役社長
(藤井大碁)
【2016(平成28)年9月26日第4862号2面】
 
株式会社太堀 http://o-hori.co.jp/
 
 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(4)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(4)
 
有限会社水上食品 代表取締役社長 水上 眞二氏
努力をした後、天命を待つ
「丹波の黒豆」との出会い
 昭和2年名古屋市西区浄心にて佃煮・煮豆の製造販売をスタートしたのが弊社の始まり。その後、昭和34年に有限会社に組織変更し現在に至る。
 私は大学卒業後すぐに入社した。入社してまもなく27歳の時、社長を務めていた父が脳梗塞で急逝した。当時、父が原材料の仕入れ、兄が経理、私が製造全般を担当していた。父の突然の死により、仕入れ担当者がいなくなり、取引先からは「この先、この会社はどうなるのか」という不安の声も上がっていた。
 社内会議の末、兄が社長、私が専務に就き、仕入れは私が担当することになった。知識や経験、相場観が全くない状況で、その年の買い付けを迎えた。豆類の仕入れは年に一度の大勝負で、失敗すれば利益がなくなる以前に、大きな損害を被る事業の根幹を成すもので、プレッシャーを抱えながら行った。
 結果的にはこの年に第一次石油ショックが起こり、全ての物の相場が大暴落し、豆類に関しても買い付けは上手くいった。しかし、その後は失敗することも多くあり、商品知識を高めるために必死に勉強した。作付面積・在庫状況・天候による作柄の3要素を分析して行うが、他の原料の買い付けと同様にギャンブル的な要素があり難しい。今年で仕入れを担当して40年が経過するが、未だにうまくいかないこともある。世の中が高度成長で自然増の状況であれば多少の失敗があってもカバーできたが、今後は自然減の時代、仕入れの失敗は許されず、これからの仕入れ担当者はもっと大変になるのではないだろうか。仕入れは的確な情報を掴むことが全てで、儲けようとしてやるよりは、損を出さないようにすることが鉄則だ。
 平成14年、兄が60歳を迎えるのを機に社長に就任した。それまで職人が経験により勘で炊いていた製造工程のデータを取り数値化することで、職人が一人前に炊けるようになるまでの時間を大幅に短縮し、品質の均一化を図った。また、真空濃縮機など様々な資材機器を導入することでより高い品質を目指した。
 商品面で画期的だったのは「丹波の黒豆」との出会いだ。40年ほど前、丹波地方に大粒の黒豆があると聞き、製品化したところ大変おいしかった。他社では高すぎて買ってもらえず、自社ブランドで製造を始めた。米の減反政策の代替え作物として豆の製造量が飛躍的に増加したことも追い風になり、それまでは料亭など限られた場所でしか食べられない高級食材だった丹波の黒豆が全国に広まるきっかけをつくることができた。
 企業理念は「全てはお客様のために」。美味しさ・安全安心の追求、全てはこの理念につながっている。
 食品業界の先行きは人口減と高齢化による胃袋縮小で、市場のシュリンクは避けられない状況だ。設備を増強して事業を辞めた同業者の製造分を吸収する体制を整えるというのもやり方の一つだが、市場がシュリンクする中、設備投資をするリスクもある。しかし、それをしなければ自らが淘汰されてしまうのではないかという不安もあり様々なジレンマを抱えている。
 食品廃棄の問題も今後は大きな課題で、ロングライフ製品などを取り入れながら無駄なくつくっていくことも考えていかなければならない。
 煮豆市場に関してはシュリンクはしているが、煮豆は完全なご飯のおかずではないので、米の消費減と比例はしておらず、比較的安定している。今後は機能性など健康志向への対応も有効だと思うが、安全安心で美味しいという基本的な事柄をしっかりやっていくことに重きを置く。
 また、食べ方提案にも力を入れたい。一般家庭で豆を煮るには3時間かかるが、その手間と時間を我々が引き受け、提供した商品を豆料理に使用してもらう。豆の自然な甘みを生かしたスイーツも一つの方向性だと思う。
 座右の銘は「努力をした後、天命を待つ」。自分でどれだけ努力をしたところで、時の運や人の運がなければ、なかなか成功はしない。出来る限りの努力をした上で、天命を待つ。時の運・人の運・出会いは特に大切だと思う。
 趣味は油絵。高校の美術クラブに所属して以来、50年以上にわたり描き続けている。高校のOB展には今でも毎年、絵を出展している。35歳で前妻を亡くした。それから再婚するまでの13年間、夜中まで酒を飲み帰宅し、誰もいない部屋でキャンバスに向かい毎晩絵を描くことが日課だった。睡眠2~3時間の生活でも不思議なことに全く疲れなかったことを憶えている。絵を描くことにより脳内にアルファー波が発生し疲れを取り去ってくれる。
【水上眞二(みずかみ・しんじ)】1948年名古屋市生まれ、法政大学法学部卒業後、1971年㈲水上食品入社、2002年より代表取締役社長
(藤井大碁)
【2016(平成28)年8月29日第4858号9面】
 
有限会社水上食品 http://mizukamifoods.co.jp/
 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(3)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(3)
 
前島食品株式会社 取締役会長 川井 功一氏
企業理念〝共生〟に込めた想い
各社得意分野で商品開発を
 前島食品のスタートは大正12年に前島敬一郎が姫路市で昆布卸業を開業したことに遡る。その後、加古川に移転、昆布製造卸売業を始めた。
 私の父・川井健爾は前島敬一郎の長男である前島博の姉の婿として入社した。父は技術屋だったこともあり、前島家と共にものづくりに特化した会社づくりを目指し、昭和38年に昆布製品の製造メーカー㈱前島商店(後の前島食品㈱)を設立、前島博が代表取締役社長に就任した。
 私は静岡大学農学部農芸科学学科を卒業後、昭和46年に入社した。当時はまだ珍しかったが、開発や分析を行うための研究室を立ち上げることが会社の命題となっており、その立ち上げのため、入社して一年間は広島の食品工業試験場に赴任し、牡蠣の保存性の研究や佃煮の分析の仕方などについて学んだ。その後、会社に戻り、工場の一角に分析機器を揃えた研究開発室を立ち上げた。
 ちょうどその頃、我社から大ヒット商品が生まれる。アミノ酸の一種により昆布の組織を分解し柔らかくする特許技術〝海藻軟化法〟を父が開発、その技術を生かした商品で、それまでの固いおやつ昆布を柔らかく食べやすくした画期的な商品だった。昭和49年に商品化し、おやつ昆布「カム」という名前で発売した。
 世の中は第一次石油ショックが終わり、甘いものを控えようとする風潮がある中、健康的なおやつとして大ヒットした。それまで、会社全体の売上が5億円ほどだった時に、おやつ昆布「カム」は単品で10億円を売るほどの商品に育ち、このヒットをきっかけに、全国に営業所を開設していった。
 私は研究室勤務後、仕入れや製造、営業部門を経て、会社が創業30周年を迎えるのを機に平成5年に3代目社長に就任した。創業当時の企業理念を時代に合わせたものにつくり変える必要がでてきており、社員の意見を聞きながら5年の歳月をかけて〝共生”という新たな企業理念をつくった。あくまでも従業員と会社は一体で、消費者や問屋・小売店などのお客様と共生していくという想いを込めたものだ。自分だけではなく他人の利益を考える〝自利利他円満(じりりたえんまん)〟の精神がベースになっており、京セラ創業者の稲盛和夫氏の考え方にも大きく影響を受けた。この企業理念は現在も弊社の考え方の柱となっている。
 平成17年、佃煮・惣菜の製造を行うグループ会社・㈱創味の原料加工を行うため中国に栄成創味食品有限公司を設立した。原料の価格優位性、来る昆布の輸入自由化への対応、中国マーケット向けの食品販売の3つが大きな決断の理由となった。為替の乱高下もあり苦労したが、昨年10年目を迎え配当もつけられるようになった。重要なポイントは、最終製品もつくるが、多くは原料の前処理加工を行い日本に材料としてもってきているところだ。中国で起きる食品不祥事の大半は事故ではなく事件で、人為的なものが多い。原料という観点でみれば、中国産の品質の方が国産より優れているものもあり、価格とのバランスを考えれば中国産の優位性は増す。それぞれの消費者に値段と品質のバランスを見極め価値を選んで貰えればいいと思っている。中国産の原料だから駄目という考え方は少しずつ変わっていくのではないだろうか。
 食品業界は今後、高齢化と少子化の流れの中で、マーケットが自ずと縮んでいく。以前3万トンの水揚げがあった北海道昆布は、現在1万5千トンでも余る時代になり、米はこの50年間で一人あたりの消費量が半分になった。そのような状況の中、お客様が本当に求めているものは何かを突き詰めて考えていかなければならない。似たような商品をつくり価格競争をするのではなく、各メーカーがそれぞれの得意分野で、他には作れない商品を開発していくべきだと考えている。本当に美味しいものは身体が自然と求めるもので、ご飯を食べるために佃煮を食べてもらうのではなく、美味しい佃煮を食べるためにご飯を食べてもらうというような逆転の発想にこれからは切り替えていかなければならない。
 また、介護食や機能性を取り入れた商品の開発も有効だ。年寄りは固いものを出されたら食べられない。柔らかく小さく刻み、食べやすくして喜んでもらう。今後はマーケット全体ではなく、シニア層や障害のある人など限られた層に向けた商品開発もしていかなければならない。美味しいものを提供しながら様々なニーズを満たし、消費者の笑顔が見られる商品を食卓に届けることが我々調理食品メーカーの宿命といえるのではないだろうか。
 座右の銘は企業理念でもある〝共生”。好きな言葉は僧侶・良寛の「道に迷ったおかげでたくさんの人に出逢えて良かったなあ」という言葉だ。うまくいかないときこそ悩み苦しみ、様々なことを経験するきっかけになる。その経験が新たな人との出逢いに繋がり、人生の宝になる。趣味はゴルフ。27歳の時から初めて40年。ゴルフの魅力は全ての責任は自分にあるところだと思っている。〝練習(努力)してもうまくはならない、うまくなるためには練習(努力)しかない〟と良く言われることがあるように、会社経営にも通じるものがある。
【川井功一(かわい・こういち)】1948年兵庫県明石市生まれ、静岡大学農学部農芸科学学科を卒業後、1971年前島食品㈱入社、1993年代表取締役社長、2005年代表取締役会長、2013年より取締役会長。
(藤井大碁)
【2016(平成28)年7月25日第4855号10面】
 
前島食品株式会社 http://www.maejima-food.jp/
 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(2)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(2)
 
株式会社合食 代表取締役社長 砂川 雄一氏
人間の力は無限なり
社内改革で組織的企業へ
 伯父が戦前、神戸の大手缶詰メーカー・水垣商店(佐々商店、MCC食品の前身)で天津の支配人を務めており、敗戦後、神戸に戻ってきて佐々商店の佐々義雄様、帝国食品の内田嘉十郎様の出資を得て兵庫県合同食品(現・合食)を創業した。初代社長は外部から迎え入れたため、私は4代目社長にあたる。
 小学校入学前から山登りを始め自然の素晴らしさを知った。神戸の六甲山の麓にある高校の山岳部に入部、当時の山岳部の先輩たちは様々な大学の林学科に入るのがはやりで、私も林学科に入り自然保護の仕事がしたいと思っていた。
 念願の林学科に入学がかない、大学では森林資源に関する学問を学んだ。当時は公務員を志していた。大学三年が終わった頃、留学のチャンスがありシアトルにあるワシントン大学の森林資源学部で一年間学んだ。アメリカの生活の豊かさ、グローバルなビジネスに触れ、国際的な仕事が面白いと思うようになった。 それを機に、商社を目指し、総合商社に入社した。木材部で南洋材製材の買付け担当となり、フィリピン・インドネシア・マレーシア・タイに東京から出張ベースで月の半分くらい滞在していた。はじめに担当したフィリピンでは紛争状態にあったミンダナオ島に工場がありフィリピン人ドライバーと共に反体制派の武装勢力や山賊の襲撃を避けつつジャングルの中を周り木材を買い付けた。山奥でホテルなどはなく、工場に寝泊りする毎日で、時にはテーブルの上に寝袋を敷いて寝ることもあった。食べ物も限られており、缶詰めが中心で、お祝いの日には、工場で飼育する豚を丸ごと焼いて食べたりしたが、山岳部で慣れていたこともあり全く苦にはならなかった。今となれば楽しい思い出の一つとなっている。
 6年間勤めた頃、当時、合食の会長を務めていた創業者の伯父から誘いをうけ入社を決意した。念願のメルボルン転勤が決まっていたが、一度きりの人生、安定はしているものの、4年ごとの転勤で一つ一つ仕事を完成させられない総合商社より、自らの意志で道を切り拓くことができるだろう合食へ入社し、夢の会社づくりに挑戦してみたいという気持ちのほうが強かった。31歳の時だった。
 まず始めに東京支店に配属された。当時の合食は製造・販売が実質15の会社に分かれて、更に1社1社の中でも一人一人が個人商店のような働き方で、その積みあげが全社の売上となっていた。組織的な動きが出来ておらず、共食いや押し付け合い、取りこぼしのような無駄がいたるところで増えはじめていた。モノ不足の売り手市場の時代であれば、拡大していく市場の中に隙間がたくさんあり、これまでの担当まかせのやり方でも通用したが、市場の拡大が止まり、買い手市場になるにつれ、このモデルの限界に差し掛かっていた。
 数多くの大手企業の成長の過程を見て、私は自己利益の追求に根ざした個人商店の集合体ではなく、製販共に共通のゴールを目指す組織的企業に転換しなければ今後はじり貧になると確信していた。2011年の社長就任後、グループ会社を統合し、調達・製造・物流など機能ごとの事業部にまとめた。会社にとって貴重なノウハウをもった多くのベテラントップが定年を迎え会社を去る直前であり、改革はギリギリのタイミングだった。既に定年を過ぎていた役員にも協力を仰いで残ってもらった。
 改革に対して、最初は社内の反発も激しかったが、全国各地の拠点を回り、自らのビジョンを粘り強く説明することで、少しずつ理解を得ることができた。夜中まで構想を練り、全社員の日報に目を通すうちにそのまま朝を迎えた日も幾度となくあった。大きな組織改革に向かって頑張ることができたのは、これまで会社が築いてきたものを途絶えさせず次の時代に繋がなければという使命感と、社員やお取引先様の応援があったからだ。改革を行う上で、社員のみんなには本当によく頑張ってくれたと心から感謝している。その成果もあり、経営統合以降ここまで増収増益を続けることができている。
 今後の目標は加工用水産原料や農産原料で国内シェア1位、世界シェア1位になる商品を増やしていくことだ。〝ナンバー1戦略〟と位置づけ取り組みを進めている。水産原料を様々な用途別の販路を持ち、大量に扱うことで、お客様が必要とされるサイズや部位だけを安価に提供することができる。合食から買えばどこよりも安く良いものが手に入るということで顧客の満足度を高め、この繰り返しが好循環の輪になってシェアを拡大させていく。水産加工品では、調理の手間なく食べられる魚惣菜やおつまみ製品の他、健康をテーマにしたスナックの開発に力を入れる。減塩しながら美味しさを保つ研究を進め、減塩シリーズで本格的な商品展開も図っていく予定だ。
 これまで趣味の登山からは様々なことを学んできた。自分との闘いの先に、美しい自然の風景がある。神々しい世界に身を置くことで人間のちっぽけさを感じ謙虚な姿勢を貫くことができる。登り始めはあんなに高いところまで登れるわけがないと思っていても、一歩一歩前進することで頂上にいつか到達することができる。少しずつ進めばゴールに辿り着けるのはビジネスにも通じるものがある。
 合食創業者がつくった社是に「人間の力は無限なり」という言葉がある。社員には自分自身の知恵と素晴らしさに気づき、自らの成長に挑戦してもらいたい。
◆砂川雄一(すながわ・ゆういち)1963年神戸市生まれ。1988年京都大学農学部卒、三井物産㈱入社、1994年㈱合食入社、2011年より代表取締役社長。
(藤井大碁)
【2016(平成28)年6月27日第4851号2面】
 
株式会社合食 http://www.goshoku.co.jp/
 
 

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(1)

全国調理食品工業協同組合 公認企画 「私と調理食品」(1)
 
株式会社京食 代表取締役社長 村山 由行氏
現在は業者にとって分岐点
柔道から学んだ教訓で
 京都中央市場の近くで生まれた。父が市場内で塩干の仲卸し会社・丸万水産を営んでおり、幼い時から手伝いに行っていたため、明太子や塩ぶりの作り方など、様々な水産物の知識を父から学んだ。
 同志社大学在学中の20歳の時に父が61歳で急死。自ら学費を稼がなければならなくなり、在学しながらの起業を決意した。丸和総合食品という問屋を設立し生鮮品や加工食品をJAの店舗に卸す商売を始めた。生前、父が京食の創業者と仲が良かった縁もあり、京食に佃煮や惣菜の製造を依頼した。前島食品の現・川井会長のお父様にものづくりの魅力や面白さを教えていただいた経験もある。
 先代の大杉社長から、販売の別会社・中央京食を設立するにあたり後継者がいないため社長に就いてほしいとの話を頂き、2年程社長として市場を中心に営業に取り組んだ。その後、中央京食の社長を務めながら本社に専務として入社。4年後に京食本体の社長に就任した。
 入社後、最初の試練が株主を集約することだった。共同企業体という会社体系だったため、大阪にある荷受の役員や市場の仲卸し、小売店主など株主が散らばっており、それをまとめるため、各株主のところに出向き説得して株を買い取っていった。
 会社が落ち着いてきた頃、工場の建て替えに着手した。京都中央市場で惣菜の販売に力を入れ始めたが、他の業者とのバッティングのないエリアでの販売を考えていた。工場に真空パックのラインを新たに組み込むことで、日持ちする惣菜製品の開発を行った。それを機に、京都・滋賀だけだった販売エリアの拡大を目指し全国の荷受に営業をかけた。
 各地に取引先ができ、5~6年は順調に売上が伸びていったが、年始の挨拶で全国を回っている際に、この先、荷受のスタイルではこれまでのように惣菜は売れなくなるのではないかと感じた。ちょうどその頃、展示会をきっかけにスーパーとの取引が決まり、関東・関西圏で一般向け惣菜パック製品の販売に乗り出した。日配と惣菜売場で約25種類、一般向けの販売はこれが初めてとなり、一つのターニングポイントとなった。それ以降、生協や大学生協などにも販路が広がり今日に至っている。
 現在は佃煮・惣菜業者にとって大きな分岐点だと考えている。製品の特性を、価格重視と品質重視に分けるとするならば、主流は価格重視の製品だが、品質重視の製品にもしっかりとニーズはある。市場環境や消費者動向の変化に対応するため、特に、3年程前から、今までのノウハウを生かした品質重視の製品づくりに切り替えた。無添加調理・国内産原料にこだわり、原材料の下処理、調理で手間暇を惜しまず手づくりにこだわり美味しいものをつくり続けていく。
 座右の銘は『信用は生涯の財産なり』。何をするにしても信用が一番大切だ。信用を得ることは難しく、無くすのは一瞬。信用を持ち続けてもらうために努力しなければならない。
 柔道からもたくさんのことを学んできた。中学3年の時にバレーボールから柔道に転身。死ぬ気で練習に取り組み、高校の国体では当時全国ナンバー1クラスの選手に一本勝ちをおさめ、全国の大学のスカウトの方から話を頂いた。地元・京都の同志社大学に進学し柔道部に入部。大外刈りや大内刈り、大腰といった技を武器に大学2年までは練習試合も含めて一度も負けたことがなかった。父の死により、選手としての道は諦めたが、在学中は柔道部に所属し続け、仕事・学業・柔道の3つを並行してこなすことに苦しんだ。卒業後も同志社大学柔道部の監督や大学講師を6年間務め、指導者として45歳くらいまで携わった。
 柔道では自分の限界をどれだけ超えていけるかが強くなるための条件となり、〝柔よく剛を制す”というように、力が残っていなくても相手の力を活用し投げることができる。それは人生も同じで、〝本気で努力すれば他人のやることは必ず自分にもできる〟という強い信念を持ちここまでやってきた。武道の道に終わりがないように、人生や仕事にも決して終わりはなく、これからも努力を続けていく。
◆村山由行(むらやま・よしゆき)1949年京都市生まれ、同志社大学商学部在学中に丸和総合食品を起業、91年より㈱京食社長。
(構成 藤井大甚)
【2016(平成28)年5月30日第4847号6面】
 
株式会社京食 http://kyo-shoku.com/
 
   
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