小樽から〝おふくろの味〟を
市場の惣菜屋から91年
父・北川紋二が出身地である富山から札幌に移住、その後、小樽に移り、大正14年に夫婦で市場の惣菜屋を始めたことが弊社のルーツになる。母親が作る手造りの惣菜の味わいが評判になり一時は市場40店舗の大家になる程繁盛していた。
戦後、父は兵役を終え、昭和26年に北川食品株式会社を創立。漬物・佃煮・煮豆の製造を始めた。私はちょうどその頃、昭和23年に三人兄弟の三男として小樽で生まれた。当時、北海道では大根が余り農家が困っていたため、その大根を安く仕入れ、沢庵漬を製造することで会社が大きくなっていった。沢庵漬の全盛期、北海道の製造量はものすごい量で、道内に25社あった沢庵漬メーカーが製造した沢庵漬を父がコンテナにまとめ上げ、東京や大阪・名古屋・京都など全国に出荷していた。当時の売上は漬物が7割で佃煮・煮豆が3割程だったと記憶している。
会社の売上が伸びていく中で、不動産の運にも恵まれた。会社や工場を建設した土地が周囲の発展と共に次々と要所となり、売却や賃貸で大きな収入を上げることができた。
私は団塊の世代で、東京の大学に進学したものの、学生運動の影響で大学二年の時に学内がロックアウトになってしまった。何もすることが出来ず、渋谷近辺にあった取引先の漬物屋さんにアルバイトとして雇ってもらい働いた。大学卒業後、父から呼び戻され、家業に入り何でも覚えるために何でもやった。その後、営業として道内や東北エリアを長年担当、北海道では沢庵やにしん漬、東北では煮豆や小女子の佃煮を主に販売してきた。営業で回る問屋さんの担当者から厳しく叱られることもあり、多くの方が自分を育ててくれた。取引先の諸先輩方との色々な出会いや別れにより人間性が養われたのではないかと思う。
57歳まで営業担当の常務としてやってきて、60歳の定年で会社を辞めようと思っていた。しかし、突然、現会長である一番上の兄から会社を継いでと頼まれ、平成17年に三代目の社長に就任した。まさに〝寝耳に水〟だったが、兄とは16歳離れており、「お前のおしめを自分が替えてやったんだ」と言われるといつも何も言い返すことができない。
社長に就いて初めて、父や兄の苦労を理解することができた。父は明治生まれの気骨のある人間で、体格が大きく腕っぷしも強く、小樽の町でも知られた存在だった。子供たちにも大変厳しく、幼少期は一緒に食事をした憶えが一度もない程、仕事熱心だった。父は100歳まで生きたが、私が社長就任後、亡くなるまでの最期の9カ月間、お見舞いを兼ねて色々と経営の相談に乘ってもらうことができた。今までにない父との濃密な時間は自分にとって大変貴重なものだった。今の自分と会社を造り上げてくれたのは父のおかげであり、心から感謝している。
会社の理念と私の座右の銘は同じで、「おふくろの味を食卓へ」だ。お袋が炊き、親父が売る。夫婦二人三脚の小さな町の惣菜屋からスタートし創業91年、私で三代目を迎えた。いつまでも〝おふくろの味〟を守っていきたい。
北海道の人口は最盛期に比べ約30万人減少した。それと共に佃煮メーカーも半減した。だが、実際自分も年寄りになってみると佃煮の魅力に改めて気付かされることもある。少子高齢化の中、糖分・塩分を控えめに健康にも配慮した美味しい製品づくりを目指していきたい。
全調食北海道ブロックの青年部会(実務担当者会議)で、広島・大阪・名古屋・東京など各地の人達と出会い、業界の先行き等について話し合いができる貴重な皆様と今もお付き合い頂いていることを有難く思っています。阪神大震災の年の調理食品青年交流会が神戸大会だったため、その年の開催地を北海道に急遽変更し、その後神戸で開催したことも記憶に残っている。様々な貴重な体験をさせて頂き感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
【北川勝三(きたがわ・しょうぞう)】1948年小樽市生まれ、駒沢大学経済学部卒業後、1971年丸一北川食品㈱入社、2005年より代表取締役社長
(藤井大碁)
【2017(平成29)年2月27日第4880号3面】
〝おばんざい屋〟として
京都の食文化の魅力伝える
弊社創業のきっかけは、たたき牛蒡だ。先代である父は、母方の祖父が営む佃煮屋で修行をしていた。父はおいしいものを多くの人に食べてもらいたい一心で、自分の母親のつくるたたき牛蒡をまねて、中央市場で販売することを思い立った。そのたたき牛蒡が好評でよく売れたので、惣菜部門ができ、惣菜を手がけ始めた。父には「祖父の佃煮屋には迷惑をかけたくない、違う分野で成功したい」という想いがあったのだろう。私が10歳の時に、佃煮屋ではなく、惣菜専門メーカーとして独立し弊社を創業した。
「おばんざい」は京都のお母さんたちが家族のために手間と時間をかけ、知恵と工夫を凝らしてきたものだ。私は代表としては2代目だが、祖父の代から数え、おばんざい屋としては3代目だと考えている。
創業時、私は小学生で、すでに家業を手伝っていた。夏休みや冬休みは中央市場について行き、土、日曜日も家族全員で仕事を手伝っていた。高校入学と同時に始めた吹奏楽で、3年時に全国大会へ出場した。「仲間を信じ精一杯やれば結果は出る」という経験や、周りの人に感謝し、一つのことをやり続けることの大切さを学んだ。その後も楽器の演奏を大学・社会人と吹奏楽団で続けた。
大学生の頃に紳士靴販売のアルバイトをしたが、自分の薦めた靴を気に入って笑顔で帰るお客様を見て、商品を売る喜びを覚えた。今でもオノウエの商品を買って、喜んで帰っていかれるお客様を見ることが仕事の支えになっている。
大学を卒業した後、段ボール製造会社に就職。家業を継ぐことを明言していたが、新しい世界で思いっきり働くことは気持ちが良く、自信もついた。その後、滋賀県にあるオノウエの系列の卸売会社で働いた。そこで様々な佃煮製品を取り扱い、業界について勉強することができた。その頃から、オノウエの営業を兼務していたが、平成8年、正式に専務としてオノウエへ入社した。
7年前に父が急逝し、社長に就任したが、手づくりで、手間をかけて商品をつくって、これから商売としてやっていけるのかと本当に悩んだ。ただ、おばんざい、京都の食文化の素晴らしさ、面白さを学び、感じている中で、当時の日本惣菜協会会長の石田彌さんから「オノウエの作る惣菜は他にはない」とお声がけ頂いたことや、様々な方に励まされたことで、この仕事を誰かがやらなければならないと決意した。だが、同時に、弊社は裏方で、料理屋、百貨店、スーパー、居酒屋などに商品を納めていたが、自社の名前「オノウエ」を売らないと、付加価値は確保できないと考え直した。それがNB商品を本格的にやり始めるきっかけとなった。
5年前から百貨店をはじめとした催事に出店するようになった。関東を中心に毎月1~2週は出店している。最初は商品の値決めが難しく苦悩したが、売場でお客様の生の声を聞けることは貴重な機会で、大変勉強になり、やりがいにも繋がっている。
販売に自信を持てるきっかけになったのは京都産のタケノコを使用した「京たけのこ御飯」をご評価頂いたこと。農家さんと一体になった取り組みで、手間と時間がかかるが、試食したお客様から「美味しい」といつも驚いて頂くことができる。
「物」に「心」を込めると「惣」になる――。素材の良さをどれだけ商品につなげられるか、良い素材とのコラボレーション。それが一番大事なことではないかと考えている。素材の物語、京都の食文化を伝えるのが弊社のテーマだ。
お客様の反応、事業との兼ね合いを踏まえ、商品の価値に合った値決めを、自信をもって進めていきたい。それが従業員のためにもなり、京都の食文化の価値向上にもつながっていく。今後も「オノウエ」というおばんざいのブランドを中心に、付加価値を高めていく。
売場で頂くお客様の生の声を活かし、会社の発展に繋げていくことが、弊社の生きる道だ。「おばんざい」は学べば学ぶほど深い。家族を想うお母さんの気持ちに想いを馳せ、食卓にみんなが集まってくれるような惣菜を作っていく。
座右の銘は「魅は与によって生じ、求によって滅する」。人間の魅力は、与えることによって生じ、求めるほどに減っていく、という意だ。自分は他人のために何ができるのか、行動する前に常に考えるよう心掛けている。お人好しと言われることもあるが、人のために何かを与えられる人間でありたいといつも願っている。
【尾上一幸(おのうえ・いっこう)】1964年京都府生まれ。洛南高校から、大阪府内の大学を卒業後、段ボール製造会社などを経て1996年専務として㈱オノウエ入社。2010年から代表取締役社長
(藤井大碁)
【2017(平成29)年1月30日第4877号2面】